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神社の由緒

由緒

湊川神社

御祭神(おまつりされている神様)

  • 楠木正成公 くすのきまさしげこう(大楠公 だいなんこう)
  • (配祀)楠木正行卿 くすのきまさつらきょう(小楠公 しょうなんこう) 及び湊川の戦で殉節された 楠木正季卿 くすのきまさすえきょう 以下御一族十六柱並びに 菊池武吉卿 きくちたけよしきょう 大楠公夫人(摂社・甘南備神社 かんなびじんじゃ 御祭神)
大楠公の生涯と由緒

楠木正成公(大楠公)は、永仁2年(1294年)、河内国赤坂水分(大阪府千早赤阪村)でお生まれになりました。この地の豪族の出身だと伝えられています。

元弘元年(1331年)正成公38歳の折、鎌倉幕府を倒して天皇自らが政治をとり、よりよい国をおつくりになろうとされた後醍醐天皇のお召しにより、天皇の許に馳せ参じられました。正成公はじめ鎌倉幕府打倒に立ち上がる武士も少なくありませんでしたが、幕府軍の力はなお侮(あなど)りがたく、後醍醐天皇は捕らえられて、隠岐島(おきのしま)(島根県)に配流になります。

しかし、後醍醐天皇が配流になった後もそれに臆(おく)せず、なお戦い続けた武将が.いました。それが正成公でした。河内国の千早城では、さんざん敵を悩ます戦を続けられました。

正成公の目覚ましい戦いぶりは、諸国の武士を驚かせ、勤王軍への加勢を促しました。ふがいない幕府軍を見て、北条氏率いる幕府軍の打倒に立ち上がった武士等の蜂起が各地に相次ぎ、やがて幕府軍が敗退し、建久3年(1192年)から続いた鎌倉幕府はとうとう滅亡してしまいます。

  • 幼少期から文武を学び、武名が知られるようになる幼少期から文武を学び、武名が知られるようになる
  • 御醍醐天皇との運命の出会い御醍醐天皇との運命の出会い
  • 奇策を図った「赤坂城の戦い」奇策を図った「赤坂城の戦い」
  • 天王山となった「千早城の攻防」天王山となった「千早城の攻防」
  • 後醍醐天皇の帰還を兵庫でお迎えする後醍醐天皇の帰還を兵庫でお迎えする

京都に還御された後醍醐天皇は、幕府の統治を改め、理想の治国を実現しようとされました。これを「建武の中興(けんむのちゅうこう)」といいます。しかし新しい体制に、武士の中には不満を持つ者も出てきました。鎌倉幕府打倒に力を尽くした足利尊氏(あしかがたかうじ)もそのひとりで、その尊氏の謀叛によって、各地での戦乱が始まりました。

尊氏は、鎌倉幕府の北条氏の残党、北条時行(ほうじょうときゆき)が信濃で兵を挙げ鎌倉に攻め込んだのを機に鎌倉に入り、北条時行を討伐します。この反乱を「中先代(なかせんだい)の乱」といいます。そして尊氏は、そのまま鎌倉に居座り、武家の政権を復活しようとしました。朝廷は尊氏を反逆者とみなし、新田義貞に討伐を命じます。天下はふたたび戦乱の世となり、約一年間は足利と新田の戦いが続きます。

延元(えんげん)元年(1336年)、足利軍が京都を占領しますが、わずか半月ほどで正成公等の朝廷軍に破れ、尊氏等は九州に落ち延びました。

しかし九州で西国武士を集めた尊氏は、ほどなく大軍を従えて京都に向かいます。その足利軍を防ごうと朝廷方は、新田義貞と正成公に、兵庫で尊氏の大軍を迎え討つことを命じました。

同年5月23日、正成公は、決死の覚悟で兵庫へ向かって出陣し、途中、桜井の駅(大阪府三島郡島本町桜井)で、御子の正行公(小楠公)に後事を託して別れ、同年5月25日(現在の暦では7月12日)、正成公は、手兵700で会下山に陣の間を置きました。主力の新田軍は和田岬に陣を敷いて足利方の海上軍に備えましたが、敵の策略のために、正成公の軍の間を分断されてしまいました。

  • 正成公は正行公に「桜井の駅」で別れを告げる正成公は正行公に「桜井の駅」で別れを告げる
  • 湊川の合戦で奮戦及ばず正成公は追い詰められる湊川の合戦で奮戦及ばず正成公は追い詰められる

七生滅賊を誓い、正成公を正季卿は刺し違えて自害した七生滅賊を誓い、正成公を正季卿は刺し違えて自害した

この日、正成公は足利尊氏の弟、直義等の軍も合わせた大軍と16度にわたる激しい合戦を交えられますが、大軍の前には、さすがの楠木軍も善戦虚しく、味方はわずか73人にまでになってしまいます。もはやこれまでと覚悟された正成公は、弟の正季卿ら御一族と「七生滅賊(しちしょうめつぞく)」を誓って殉節(じゅんせつ)され、その偉大な生涯を閉じられました。

以来、この誠忠(せいちゅう)の正成公を慕う人々によって正成公の塚(お墓)は大切にされてきました。やがてお墓は豊臣秀吉検地(けんち)の際、免租地(めんそち)とされ、江戸時代には尼崎藩主青山幸利(あおやまよしとし)公によって松と梅が植えられ、五輪(ごりん)の石塔(せきとう)も建てられました。

そして元禄5年(1692年)水戸光圀公(みとみつくにこう)(義公)はそのお墓に「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑を立てられ、御墓所を立派に建立されました。この御墓所が建立なるや、さらに多くの人々が墓前にお参りし、正成公を偲びその御遺徳(ごいとく)をたたえました。

明治維新の前後には、新しい日本の国づくりを願ったたくさんの志士達が墓前に詣でつつ国事(こくじ)に奔走(ほんそう)しました。

これにより正成公景仰(けいぎょう)の気運がいよいよ高まると共に、幕末から維新にかけて正成公の御神霊(ごしんれい)を奉斎したいという国民運動が盛んになり、明治元年(1868年)、明治天皇は正成公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するようお命じになり、当時のお金で千両という大金を下されました。こうして明治2年(1869年)、御墓所・殉節地を含む7,232坪(現在7,666坪)を境内地と定められ、明治5年(1872年)5月24日、湊川神社が創建(そうけん)されたのです。

延元の戦いで奮戦し、誠忠と正義とを以て生涯を貫かれた正成公に対する景仰は積年変わることなく、現在も全国からたくさんの参拝者を迎え、湊川神社は日本有数の名社として崇敬されています。

  • 徳川光圀公が碑を建て御墓所を建立徳川光圀公が碑を建て御墓所を建立
  • 幕末の志士たちも楠公さんの墓前を訪れた幕末の志士たちも楠公さんの墓前を訪れた
御盛徳 ごせいとく

正成公は、智・仁・勇の三徳を備えられた偉大なる御人格をもって、聖人(せいじん)とまで言われ仰がれた人でした。

正成公の誠忠と正義とを以て貫かれた精神は、楠氏一族子孫にまで受け継がれ、日本史上これほど偉大な影響を後世に及ぼした人はないとまで言われ、その後の国民に大きな感化(かんか)を与えたといわれます。

御盛徳 ごせいとく

社殿 しゃでん

現在の社殿は、戦災によって焼失したものを、昭和27年10月24日に復興新築されたもので、様式は権現造(ごんげんづくり)に似た八棟造り(はちむねづくり)とされ、鉄筋コンクリート造で建てられており、戦後の新しい神社建築様式としての代表的な建物と言われています。
 本殿は三つの御扉が見え、三座に分かれ祀られています。中央の御扉の奥には主神の正成公、向かって右には正成公夫人、向かって左には御子の正行公と正成公御弟の正季卿以下御一族十六柱並びに菊池武吉卿がお祀りされています。

社殿 しゃでん

本殿の階下左右にある金色の獅子・狛犬(しし・こまいぬ)は平櫛田中(ひらくしでんちゅう)の作で、腹中(ふくちゅう)には「国家の隆盛・国民の幸福・世界の平和」を祈る祈願文が納められています。

拝殿天井(はいでんてんじょう)の絵は、全国著名画家の奉納になったもので、中央の「大青龍(だいせいりゅう)」は福田眉仙(ふくだびせん)の作、その右四枚の板画「運命」は、棟方志功(むなかたしこう)がニーチェのツァラトウストラに暗示を受けて創造した作品。また拝殿両側の獅子・狛犬の壁画は、これも棟方志功の傑作で、「降魔・伏邪(ごうま・ふくじゃ)」の賛は徳富蘇峰(とくとみそほう)の筆です。

狛犬
獅子
狛犬
獅子

拝殿天井画
拝殿天井画
殉節地 じゅんせつち(史蹟 しせき・楠木正成戦没地 くすのきまさしげせんぼっち)

延元元年(1336)5月25日、正成公が御弟正季卿以下御一族と「七生滅賊(しちしょうめつぞく)」を誓われつつ殉節された場所と伝えられ、境内西北隅に位置します(国指定文化財史蹟)。

殉節地 じゅんせつち(史蹟 しせき・楠木正成戦没地 くすのきまさしげせんぼっち)

御墓所 ごぼしょ(史蹟 しせき・楠木正成墓碑 くすのきまさしげぼひ)

正成公以下御一族等の墓所として、境内東南隅に位置します(国指定文化財史蹟)。

元禄五年(1692)に、権中納言徳川光圀公(ごんのちゅうなごんとくがわみつくにこう)(水戸黄門)は、家臣佐々介三郎宗淳(さっさすけさぶろうむねきよ)を、この地に遣(つか)わして碑石(ひせき)を建て、光圀公みずから表面の「嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)」の文字を書き、裏面には明(みん)の遺臣朱舜水(いしんしゅしゅんすい)の作った賛文(さんぶん)を、岡村元春(おかむらもとはる)に書かせて、これに刻ませました。

御墓所 ごぼしょ(史蹟 しせき・楠木正成墓碑 くすのきまさしげぼひ)

この墓碑の建立によって、正成公の御盛徳は大いに宣揚(せんよう)されるとともに、幕末勤王思想の発展を助け、明治維新への力強い精神的指導力となったのです。即ち幕末から維新にかけて、頼山陽(らいさんよう)・吉田松陰(よしだしょういん)・真木保臣(まきやすおみ)・三条実美(さんじょうさねとみ)・坂本龍馬(さかもとりょうま)・高杉晋作(たかすぎしんさく)・西郷隆盛(さいごうたかもり)・大久保利通(おおくぼとしみち)・木戸孝允(きどたかよし)・伊藤博文(いとうひろぶみ)等々は、みなこの墓前にぬかづいて至誠を誓い、国事に奔走したのです。

徳川光圀公銅像 とくがわみつくにこうどうぞう

御墓所には徳川光圀公(水戸黄門)の銅像があります。光圀公は、水戸藩主を辞して西山荘(せいざんそう)に隠居(いんきょ)された後も、大日本史の編纂(へんさん)を行うなど活躍され、正成公をひたすらお慕いされて墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立されました。これら御事蹟は天下に顕彰され、偉大な御功績をのこされました。此の御功績を追慕して御尊の建設が尊願され、昭和30年7月に完成しました。銅像の原型は、平櫛田中の作で、その頌徳碑(しょうとくひ)は、徳富蘇峰(とくとみそほう)の文によるものです。

徳川光圀公銅像 とくがわみつくにこうどうぞう

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