楠公史跡

楠公殉節から神社創建
600年の時をつないだ
崇敬の証しがここに

壮絶な湊川の戦いで自刃された正成公。
その血と涙に濡れた地より墓所は「百弓ばかり隔てたるところに葬りたる」とさる歴史書には書かれています。
御殉節の地と墓所を対角線に結ぶ地が、大楠公御殉節より約500年を経て境内と定められて大楠公を祀る社が創建されました。

楠公史跡
楠公史跡

殉節地じゅんせつち
(史跡・楠木正成戦没地)

延元元年(1336)5月25日、湊川合戦の末、正成公をはじめご一族が殉節を遂げられた場所です。(国指定文化財史跡)。

炎天下に於ける足利軍との激戦の末、楠木一族が最期を迎えられた湊川の北方の民家が、この殉節地奥、注連縄の張られた辺りの場所であったと伝えられています。
もはやこれまでと覚悟された正成公、73人の一族郎党が2列に並び、念仏十編を唱え一斉に腹を切り、正成公と正季卿は、「七生滅賊」を誓い合い、刺し交えて、その壮烈無双な生涯を閉じられたのです。

佐賀藩「楠公義祭同盟」の出身者大隈重信、江藤新平、大木喬任がそれぞれが一対づつ奉納した大燈籠や、初代兵庫県知事であり、湊川神社創建に深く寄与した伊藤博文が大蔵少輔兼民部少輔時代に奉納した一対の燈籠など、楠公を偲んだ勤皇精神の志気の跡が残っています。


御墓所ごぼしょ
(史跡・楠木正成墓碑)

湊川の戦い後、地元の人々にひっそりと祀られていた楠公の墓が初めに明かになったのは、豊臣秀吉の太閤検地でした。その後、尼崎藩主青山幸利公により五輪の供養塔が建てられました。大日本史を編纂し日本の国柄について深く思いを致していた徳川光圀公は、正成公を非常に敬慕され、元禄5年(1692)に佐々木宗淳を遣わして、建碑費183両余の正成公の墓碑を建立されました。

独特の墓碑の形の様式は「亀趺碑」といいます。四角の台座上に、神獣・贔屓の形に刻んだ亀趺が乗り、更に甲羅の上に碑石を担ぐように、三部分から成り立っています。碑石は大楠公の故郷大阪の青和泉石、亀趺は後醍醐天皇にお仕えした京都の白川石、そして四角の台座は、終焉の地神戸の御影石と、それぞれゆかりの地の石を用いて作られています。

「嗚呼忠臣楠子之墓」の8字は光圀公自らが筆をとられました。また裏面には明の遺臣朱舜水による散文が岡本元春の筆により刻まれています。大楠公の誠忠を最もよく表しているこの名文は多くの人々を感動させました。
吉田松陰や横井小楠や新島襄らもこの墓碑の拓本を座右に掲げて楠公を景仰し、後進の育成にあたりました。