湊川神社の創建

500年の時を経て-
国民悲願の神社創建

奇策智謀に優れ、鎌倉幕府倒幕の立役者となった後、湊川の戦いで「七生滅賊」を誓って殉節された楠木正成公。智・仁・勇の三徳を兼備し、誠忠の人と仰がれてきました。しかし、神社創建の御沙汰が明治陛下より下されたのは正成公の御殉節から500年の時を経た明治元年。湊川神社は神祇史上初めて別格官幣社に列せられました。楠公を葬ったこの地の500年。どのような変遷があったのでしょうか。


太閤検地で発見された
正成公のお墓

正成公殉節以来、「墓所」の存在が初めて表舞台に出たのは、文禄年間(1592-1596)です。世にいう豊臣秀吉の「太閤検地」です。片桐且元をして検地させた際、楠木正成公が葬られている場所だと判ったので、東西4間、南北6間の24坪が免租地とされたのです。この場所は、現在玉垣で囲われている域です。


歴代尼崎藩主が
崇敬した
正成公のお墓

寛永20年(1643)に尼崎藩主となった青山幸利公は、領内に楠公墓のあるのを知り、正保3年(1646)塚印として松と梅を植栽し、その後、五輪の供養塔を建立しました。名所図絵や紀行文などにも描かれ、楠公墓所が世のに広く認識されるきっかけともなりました。墓所には尼崎藩主松平(桜井)忠名から忠興に至るまでの6代の奉納燈籠が並び立っています。


水戸黄門様が
正成公のお墓を建てる

徳川光圀公は、その時代が幕府の権威が最も強く朝廷に対して不敬も多かった時代であったにも拘らず「我が主君は天子なり。今将軍は我が宗室なり」と公言し、皇室に対して敬虔尊崇の念を抱いていました。西山荘に隠居後、念願の正成公の墓碑建立に着手しました。建碑以来、楠公墓碑は多くの名所図絵にも描かれ、参拝者は一日千人以上だと言われています。


伊藤博文と
湊川神社創建

慶応4年(1868)、神戸裁判所(地方行政庁)の役人であった伊藤博文ら有志6名が神戸の豪商・北風荘右衛門と打ち合わせの上、6名連名で東久世通禧へ楠社創建の建議をし、通禧は朝廷に請願。この地元からの請願が受理され、明治陛下は正成公を「千載之一人臣子之亀鑑」と称え、明治元年に神社創立の御沙汰を下されました。
その直後に初代兵庫県知事となった伊藤博文はまず湊川神社の境内地の選定や収用に掛かりました。境内地を楠公の殉節地と墓所を対角線に結ぶ長方形の土地七千余坪と定めることができたのは、伊藤の楠公景仰一心の尽力の成果といえましょう。


楠社設立の建議競争

江戸時代の楠公人気の高まりが高じ、明治維新前後、楠公を祀る神社の創建を願う国民の希望も強くなり、諸藩の建白競争ともいえる事態を発しました。まず、元治元年(1864)薩摩藩の島津久光が湊川に楠社創建することを朝廷に請願したことを皮切りに、慶応3年(1867)には尾張藩の徳川慶勝が京都神楽岡での建立を請願します。(以後2度も。)伊藤博文らの建白書が受け入れられた後には、水戸藩徳川慶篤がその創建を水戸藩に一任されたいと朝廷に請願します。いずれの案も朝廷は許可されず、広く国民の力を合わせて造営することが決められました。


国民の総意の湊川神社

結局、湊川神社創建の費用2万2千円は、皇室をはじめ全国民とする寄付や尾張藩からは用材180本など各地からの献納で賄われました。新政府の参議となった大隈重信や江藤新平、各藩が燈籠などを寄進するなど、全国からの献納物が絶えませんでした。境内地のうち310坪は里人による寄進で、湊川の河原の砂を運び土地の基礎を作る奉仕も里人らが熱心にしたということです。


明治期の境内の隆盛

境内地一帯は神社創建当時は田畑が広がっていましたが、神社の盛栄と共に開発が進みます。
明治6年(1873)、湊川神社の東側は銀行、保険会社、船会社などが立ち並ぶ、神戸随一のビジネス街となりました。翌年には東京-新橋間に続く日本で第二番目の鉄道が、大阪-神戸間に開通しました。そして、市役所、裁判所、商工会議所の開所、弁天浜の明治天皇御用邸、と神社を中心として神戸が街開きされていきます。
境内では、明治6年に露店の営業が許可され、「その賑わいはさながら浅草のようであった」といいます。日本最初の水族館、芝居小屋、寄席、料亭のほか、今で言う複合商業施設のような勧業場も建てられ、一帯は神戸随一の繁華街となりました。