楠公崇敬の歴史

~時代を超えた
ヒーロー~
日本人が
魅せられてやまない
楠公さん

正成公が歴史の表舞台に立ったのは僅か数年。当時、武士の社会秩序は一族一党の利益が最優先、天下静謐を願う正成公の精神は非常に稀有なことといえます。その理念や信念、志操が、敵味方、武家方、宮方問わず楠公の人柄を思慕し、一般的な武将に対する評価を超越して聖人とも感じさせたのでしょう。後世、戦国武将がその跡を求め、外国人をも魅了し、また、幕末志士達の精神的支柱となったという、いわば、時代を超えたヒーローが「楠公さん」という存在です。
600余年、楠公さんはいつの時代も日本人の誠心と憧れの象徴であり、すなわち、誇り高く気高い日本人の理想像として楠公精神があったのです。
※しばしば楠公精神は「滅私奉公」「忠君愛国」と言い換えられ、軍国主義の象徴、玉砕精神という誤解がまかり通っているのは、ひとえに戦後の僅か70年間でゆがめられてしまった自虐史観の産物であり、遺憾の意を表します。


敵方、足利尊氏も
一目おく

『太平記』と双璧をなす歴史書『梅松論』は足利政権を華々しく描くものですが、そこには、正成公が尊氏との和睦を献策したが受け入れられず、人心が朝廷から離れていることを見抜きつつ兵庫に下向したと書かれ、その最期を「本当に、賢才武略の勇士とはこのような者のことを云うのだ、敵も味方も惜しまない人はなかった」と、楠公の鋭い洞察力と賢才武略を称えています。また、室町幕府2代将軍・足利義詮は自分の死後楠木正行の隣に葬ってほしいと遺言し、現在まで、京都宝筐院に並んで葬られています。


戦国武将と楠木流兵法

真田昌幸・幸村父子は正成公の戦法を常に手本としていたと言われています。楠木家の子孫といわれ伊勢の北畠に従じた楠木正具は「流石は正具、正成の後胤程ありて(中略)有難き勇士なるかな。」と豊臣秀吉に言わしめた強者でした。
秀吉はじめ、毛利輝元、加藤清正、小西行長ら太平記を所蔵し愛読していた戦国武将は少なくありません。武将たちは正成公から機知に富んだ楠木流兵法を学び取りましたが、やがて個々のリーダーとして、楠公に正道の姿を求める者も出てきたのです。武将として正道を追う、これが武士道のはじまりであり、それは楠公の精神を極めたところ、といえるのです。


江戸庶民のヒーロー
文化芸術と楠公

江戸市中に講談師の前身となる「太平記読み」が現れ、人々は楠公さんの物語で熱狂しはじめます。そして、浄瑠璃や浮世草子、黄表紙など、あらゆる文芸、芸能で「楠公もの」は最も人気の題材となります。
赤穂義士の討ち入り事件では、人々は楠公の再来と湧いたほどでした。吉良家は足利一族の血を引く名門であり、大石内蔵助が七生滅賊の楠公の言葉通りその血筋を断絶させ、同時に、主君の無念を臣下の無念として見事晴らした内蔵助の精忠の姿の中にも、人々は楠公を見い出したのです。


江戸諸学学派と
楠公精神

江戸時代初期に、儒学や朱子学から山崎闇斎を源流とする『崎門学』、徳川光圀公の『大日本史』編纂事業を源流とする『水戸学』、本居宣長に代表される『国学』など日本独自の学問が成り立ちましたが、それらの多くは楠公精神を国を考える上での根底としました。
そして熱烈に大楠公を称え、崇高な目標と位置づけた学者達が記した、「靖献遺言」(浅見絅斎)や「日本外史」(賴山陽)などが志士の間でベストセラーとなるなど、楠公景仰は武士達にも広がっていきました。


各地での楠公祭-
楠公を神と祀る

光圀公の湊川建碑に先立つこと29年も前、寛文3年(1663)、楠公を深く崇敬する佐賀藩士・深江信渓の発案により、2代藩主・鍋島光茂はじめ、藩士、僧侶、婦人ら約250名が奉加帳に名を連ね、信渓の隠居所の庵室(後の永明寺)に楠公父子像を奉斎ました。
その後、長州藩や津和野藩では藩校で、岡藩では城内で、それぞれ藩主も係わり楠公祭が行われています。また、佐賀藩では儒学者・枝吉神陽を中心として、副島種臣、島義勇、大木喬任(後に江藤新平、大隈重信、佐野常民ら)が発起人となって楠公顕彰を目的とする「楠公義祭同盟」が結成されました。
尾張、薩摩藩でも同時期に楠公祭が行われ、明治元年5月25日には京都河東繰練場に斎場が設けられ、国家的の祭儀として楠公祭が執り行われたのです。


維新の志士と楠公墓碑

楠木正成公のご事績ご盛徳が天下に広まるとともに、幕末勤王思想の発展を助け、明治維新への力強い精神的指導力となりました。吉田松陰、坂本龍馬、西郷隆盛、高杉晋作など勤皇の志士はもちろん、新選組らも討幕派佐幕派問わず、みなこの墓前にぬかづいて至誠を誓い、国事に奔走したのです。
坂本龍馬の愛用の短刀(匕首)は「刀剣図考」掲載の正成公の短刀を模したものと言われています。西郷隆盛は自身の号を楠木にあやかって「南洲」とし、私学校創設時にも正成像を守護神として祀っていました。吉田松陰は楠公墓碑の拓本を松下村塾に掲げ、楠公になることを人生の目標としました。


外国人も感銘を受けた
楠公精神

  • 英国公使ハリー・パークスは楠公父子の精忠と節義の物語に感銘を受け、外国人で初めて明治9年に桜井駅跡に顕彰碑を建立しました。
  • ロシア皇太子ニコライ2世は明治24年湊川神社に参拝し、宮司より太刀と湊川合戦図の写真を贈呈され、楠木正成公の忠義心に感銘を受けました。そして翌日見学した京都博覧会場でゲルギオス親王は楠木正成の絵を購入しました。
  • イギリスの名門イートンカレッジの寄宿舎の壁に、楠木正行公の四条畷合戦の錦絵が掲げられていたことが昭和9年に確認されています。「ワーテルローの戦勝はイートンの運動場にあり」と謂わしめた不屈の精神は、楠公精神によって修養されたのでしょうか。