楠木正成公のご生涯

少年時代

楠木家は河内の豪族。(数代遡ると駿河の出自で北条得宗被官であったという説もあります。)
楠木正成公は、永仁二年(1294)、河内国赤坂(大阪府千早赤阪村)の生れです。観心寺の僧龍覚坊に学問を、兵法は毛利時親に師事し、文武両道の立派な若武者に成長されました。


後醍醐天皇に
召出される

その頃、北条氏が実権を握る政治が徐々に乱れ、世の人々の不満がくすぶりはじめていました。乱政を嘆き憂いていた後醍醐天皇は元弘元年(1331)正成公を避難先の笠置山に召し出され、正成公は、力の限り国のために尽すことを誓われました。
「正成一人生きてありと聞し召し候はば、聖運ついに開かれるべしと思し召し候へ」(太平記巻3)


下赤坂城の戦いと
後醍醐天皇の配流

正成公は急拵えで下赤坂城を築き、幕府相手に奇策智謀の数々で奮戦しますが衆寡敵せず。正成公は城に自ら火を放ち、戦死したと見せかけて秘かに落ち延びる作戦を取ります。後醍醐天皇は隠岐に、親王も各地に配流され、側近の公家は処刑されました。


千早城・上赤坂城の
戦い

死んだと見せかけた楠木正成公は千早城に挙兵します。わずか千人ほどの楠木軍。権謀の限りを尽くした籠城作戦に数万の幕府軍(北条方)は翻弄され、更に大軍を注ぎ込んでも攻め落とせません。その奮闘に勇気を得て、各地の武士達は打倒鎌倉幕府、と蜂起しました。


鎌倉幕府の崩壊

数万の幕府軍を千早から敗走させ、幕府を崩壊に導いた楠木正成公は、隠岐を脱出された後醍醐天皇を兵庫の津で奉迎し、京都まで先導されました。
「大儀早速の功、ひとえに汝が忠戦にあり」(太平記巻11)


足利尊氏の裏切り

晴れて後醍醐天皇は自ら政治を行われることとなりました(建武中興)。しかし、足利尊氏は自分が将軍となって再び武家の政権を復活させようと、叛旗を翻したのです。正成公は足利の大軍を打ち破るための献策をしましたが、浅はかな公卿等の反対により、取り上げられませんでした。


桜井の別れ

正成公は、決死の覚悟で兵庫に出陣されます。途中、桜井の駅(大阪府島本町)で、嫡男の正行公に、「河内へ帰って国や母を守り、父に代わって天皇をお助けし、最後までお護りするように」と諭され、河内へ帰されました。


湊川の合戦

延元元年(1336)5月25日の朝、足利高氏・直義兄弟の率いる大軍が海陸両方から攻め上ってきました。
楠木軍は会下山に陣を張り700騎あまりの手勢で奮戦しました。激しい戦いは、朝から夕方まで続き、さすがの楠木軍もわずか73騎にまで減りました。


義に殉じた楠公御一族

もはやこれまでと、正成公らは、湊川の北方(現在の湊川神社の御殉節地)まで落ち延び、弟正季卿と七生滅賊を互いに誓い合い、兄弟刺し違え、その偉大な生涯を閉じられたのでした。
「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へ。」「罪業深き悪念なれ共我も加様に思ふ也。いざゝらば同く生を替て此本懐を達せん。」(太平記巻16)


小楠公と後世の一族

後事を託された嫡男正行公(小楠公)は、正平2年晩秋の住吉天王寺の戦いで、敗走した山名時氏、細川顕氏の兵たちが殺到し、溺れた多くの敵兵を救出し、暖を取らせ、衣服を与え、傷を治療し、亰に帰る兵に馬まで与えたという、赤十字加盟の逸話も残るほど、義と優に溢れた若武者に成長されました。しかし、正平3年(1347)四条畷の合戦で、高師直を本陣でから後退させるなど優位に立つも力尽き、弟の正時、従兄弟の和田賢秀ら一族26人で自刃されました。この時正行公は、父上同様、弟正時公と刺し違えて殉節されました。

その後、足利尊氏によって室町幕府が開かれてからも、南朝遺臣の核となった楠木一族は歴史に登場し、私利私欲に傾く世に楔を打っていきます。