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神社の由緒

境内ご案内

神能殿 ~本格的能楽の殿堂~

神能殿

神社のご鎮座100年祭記念事業の一つとして、昭和47年(1972年)4月に能楽堂を建設、「神能殿」と名付けられました。殿内には、総桧造り桧皮葺入母屋破風屋根の典雅荘重な能舞台(元観世流宗家舞台を移設)が設けられ、500余名の収容力を持つ本格的能楽の殿堂とされています。

楠木正成公(大楠公)と能楽の関係

能楽の家元である観世家の起源と系譜(系図の学問・芸術なのどの師弟関係を書きしるしたもの)については、種々論議されてきました。その根本史料というべきものは、世阿弥の談話(はなし)を筆記した「申楽談儀」(さるがくだんぎ)と、世阿弥の甥で第四世観世大夫の末子であった観世小次郎の「画像賛」の二つであると考えられます。

しかしこの二つの史料に記されている観世の家譜は、一致しないどころか噛み合うところさえないので大変問題になっていたのです。そうした中、近年、「観世福田系図」が発見されてから、この二つの史料の矛盾の謎が見事に解決されたのです。すなわち「申楽談儀」は専ら芸能上の系譜のみを語って、血統上の系譜を説いてないのに対し、「画像賛」の方は血統を語っているということが判明したのです。

何故「申楽談儀」が芸能上の系譜のみを語って、血統上の繋がりを示さなかったかというと、世阿弥の父観阿弥が、文中3年(1374)京都に於いて足利義満(室町時代)の面前で能を演じ、盛名を馳せるに至ったのですが、当時楠木氏の血縁である父母の家筋は秘匿しなければなりませんでした。そのため芸能上の系譜のみが語られていることが「観世福田系図」によって明らかになったのです。この「観世福田系図」は、観阿弥が生まれた伊賀の旧家、上島家に伝わる古文書の中から発見されたもので、これによって世阿弥は大楠公の血縁を引く者であることが証明されたのです。

実は、この「観世福田系図」が発見された当時には、これは江戸時代に作為されたものとして受け入れられませんでしたが、その記載内容を裏書きする資料が兵庫県揖保郡揖保川町新在家、豪農永富家(元楠木同族会 顧問 鹿島建設株式会社会長鹿島守之助の生家)の古文書からも発見され、現在ではこの系図は江戸後期の写しであっても、必ず古本の書写であるに違いないとされています。すなわち「申楽談儀」と「画像賛」との矛盾がこの系図によって解決されたことは、この「観世福田系図」が事実を伝えているものであると、多くの学者が認めることにもなったのです。

いま、「観世福田系図」を中心に観世家の起りと系譜を調べてみますと下記の通りで、大楠公の妹御は能楽を興降した観阿弥の母、それを大成した世阿弥の祖母であって、世界に誇るわが能楽は、実に楠木氏の血縁を受け継いで発展してきたものなのです。

大楠公と観世家の関係略図

大楠公と観世家の関係略図

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