建武中興十五社

後醍醐天皇を御祭神とする吉野神宮をはじめ、建武中興関係の十五神社が相諮り、建武中興の精神を体して日本の国体の発揚に尽力することを目的として、平成14年に「建武中興十五社会」が結成されました。翌年3月13日が建武改元から670年を数える佳節の年でした。

「建武中興」は、第96代後醍醐天皇が天照大御神を皇祖とする天皇を中心として形作られてきた、我が国が「神国」であるという本義をふまえ、延喜・天暦の御世にならって、天皇御自ら国を治める理想の国づくりを目指された、大いなる功業です。
忠臣らの支えもあって一旦は成った建武中興も、足利高氏の謀反により中断の已むなきに至りますが、その御遺志は伏流水となり、歴代の天皇や皇子、幾多の忠臣義士が私心を捨てて幕府政治に挑んだ闘いの結果、500余年の歳月を経て、「明治維新」という形で再び実現することとなりました。王政復古を遂げられた明治天皇の鴻業は、まさに建武中興より受け継がれたといえましょう。そして、明治天皇は建武中興にご功績のあった皇子忠臣を祀る神社の創建を御沙汰になったのです。

広く皆様には、肇国の精神に立ち返った後醍醐天皇のご理想と、公のために己を虚しゅうしてきた忠臣志士の精神に触れていただき、この内憂外患の時代に、各社の御神徳に触れて何か教示を得ていただければ幸甚に存じます。

建武中興十五社会

神 社主なご祭神住 所旧社格
吉野神宮後醍醐天皇奈良県吉野郡吉野町吉野山3226官幣大社
鎌倉宮護良親王神奈川県鎌倉市二階堂154官幣中社
井伊谷宮宗良親王静岡県浜松市浜名区引佐町井伊谷1991-1官幣中社
八代宮懐良親王熊本県八代市松江城町7-34官幣中社
金崎宮尊良親王・恒良親王福井県敦賀市金ヶ崎町1-4官幣中社
小御門神社藤原師賢千葉県成田市名古屋898別格官幣社
菊池神社菊池武時・菊池武重・菊池武光熊本県菊池市隈府1257別格官幣社
湊川神社楠木正成兵庫県神戸市中央区多聞通3丁目1-1別格官幣社
名和神社名和長年鳥取県西伯郡大山町名和556別格官幣社
阿部野神社北畠親房・北畠顕家大阪府大阪市阿倍野区北畠3丁目7-20別格官幣社
藤島神社新田義貞福井県福井市毛矢3-8-21別格官幣社
結城神社結城宗広三重県津市藤方2341別格官幣社
霊山神社北畠親房・北畠顕家・北畠顕信・北畠守親福島県伊達市霊山町大石字古屋舘1別格官幣社
四條畷神社楠正行大阪府四條畷市南野2丁目18-1別格官幣社
北畠神社北畠顕能・北畠親房・北畠顕家三重県津市美杉町上多気1148別格官幣社

巡拝案内記

十五社それぞれの由緒と御祭神の御事績を記した案内記です。巻末は御朱印帳となっております。各社寺で御朱印をお受け下さい。

頒価
 一冊500円
朱印料
 各社500円

建武中興について

 第九十六代後醍醐天皇は後宇多天皇の第二皇子で、文保2年(1318)に異例の31歳で即位され、延元4年(1339)に崩御されるまで、21年間の永きにわたって在位せられた。その間、幾多の苦難をたどりつつ、天皇親政による国家中興への力をつくされ、その強い御決意の実現となったのが「建武中興」である。しかし、足利尊氏の謀反によって、わずか2年余で中断されることとなるが、この建武中興は、わが国の歴史において、実に重要な意義を有するのであった。

 源頼朝の武家政治に始まる鎌倉時代には、注目すべき二つの事件があった。その一つは承久3年(1221)の「承久の変」で、後鳥羽上皇による討幕計画が失敗に終って、上皇は隠岐に流され、崩御された。いま一つの事件は、蒙古襲来である。二度にわたる強大な国家を誇る蒙古の襲来は、政治・経済などに多くの影響を与えた。かつてない外圧に国民は悲観絶望の感を深くするが、この二つの事件を通じて”わが国は「神国」(天照大御神の皇孫たる天皇を大君とあおぐ国)なり“との思想・信仰を深め、やがて政治を顧みて、わが国中興の気運が高まってゆくのである。

 そんな中で後醍醐天皇は、御父帝・後宇多上皇の院政を廃止され、朝廷内での天皇親政を実現された。天皇は、かつて延喜・天暦の御代の盛時を思われ、醍醐・村上両天皇の善政を理想とし、国家の中興を志された。もって御在世のときから「後醍醐」と称せられ、その心を継いで盛時を復古する目標を示されたのである。

 そして意欲的に親政の徹底を図るよう、人材の登用、朝儀の復興、因習の廃止、記録所の復活など、果敢に改革を進められたが、その理想実現には、どうしても幕府打倒が不可欠、且つ、喫緊の課題となり、専横を極めていた鎌倉幕府を倒して、政治の一元化を図る決意をされたのである。

 よって倒幕に向けて、正中元年(1324)と元弘元年(1331)の二度にわたり計画が進められたが、残念にも失敗に終わった。

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 後醍醐天皇は、ひそかに御所を逃れられ、笠置山に入られた。笠置山に義旗が上がったのに呼応し、お召しを受けた楠木正成公が赤坂城にて挙兵、智謀をつくして幕府の大軍と戦われるのである。やがて笠置城は落城し、元弘2年(1332)天皇は幕府(北条高時)によって隠岐の島に配流される。楠木正成公は赤坂城を逃れ、一時姿を隠され、のち千早城にたてこもられることとなる。同様に身をひそめつつ活動を続けられる大塔宮(護良親王)は、正成公と連絡をとられつつ吉野に挙兵、しかしまもなく吉野城は陥落、北条の大軍は孤城千早を一挙に落すべく激しい攻撃をかけた。だが智謀・策略の手段をつくされた正成公の必死の戦いには、幕府大軍勢といえども、数ヵ月かかってもなお、陥れることができなかった。この間大塔宮は、北条軍の糧道を絶つなどの活躍をされるとともに、全国の武士に令旨を発して決起を促された。

 楠木正成公が千早城で幕府の大軍と戦っておられる間に、後醍醐天皇は、元弘3年(1333)ひそかに隠岐を脱出、名和長年公を召されて、伯耆国(現鳥取県)船上山にお入りになった。天皇の非常な危険を犯してまでの行動から、国家中興の理想実現へのなみなみならぬ御決意が拝推される。

 船上山に義旗がひるがえると、名和氏・千種氏の活躍に呼応する者も出て、赤松円心が義軍に加わるなど、また九州の菊池武時公も義兵をあげられた。

 足利尊氏は、幕府の船上山攻撃の督促を受けるが、謀反して義軍に加わり、六波羅を攻撃。これと時を同じくして新田義貞公は、結城宗広公等と連絡をとりつつ関東に兵をあげられ、鎌倉幕府の本拠を攻撃、元弘3年5月、ついに鎌倉を手中におさめられた。北条高時は自害し、ここに鎌倉幕府は滅亡した。このような東西義軍の奮起を促したのは、大塔宮の御活躍の功によるところ大きく、そしてその宮の御活動を支えたのは、実に楠木正成公が千早城に拠って半年間も戦い続けたことによるものといえよう。

 かくて元弘3年(1333)6月、後醍醐天皇は船上山から京都に還幸され、皇位に復帰、天皇による新しい政治が行われることとなった。そして翌年年号は、「建武」と改元された。

 中興が実現すると、国内の安定と治安の維持に向けて、各方面の新しい政策が進められた。まず交易流通を円滑にして経済の発達をはかるため関所を停止し、その他商業を保護する方策や貨幣の鋳造・紙幣の発行を行い、奢侈を禁止し、所領安堵を図り、徳政を実施するなど、新しい政治が取り進められたのである。

 だがそんな中興政治が進められる中、足利尊氏は、武士の関心を集め、次第に武家勢力を拡大させ、それに乗じて護良親王を鎌倉に幽閉、やがて反尊氏勢力の中心となった新田義貞公と対立を深めることとなる。尊氏は武家政治を実現しようとするのに対して、義貞公は幕府を否定して天皇を中心とした国家の姿を維持しようとする点で、根本的に異なる立場にあるからである。

 そんな中、建武2年(1335)、北条氏の残党、北条時行が兵をあげて鎌倉を占拠(中先代の乱)。これを契機に尊氏は、義貞公を討つことを名目に、公然と朝廷に反旗をひるがえした。これによって世は再び混乱に陥り、建武中興は瓦解の已むなきに至るのである。

 その後、叛徒の尊氏は、北畠顕家公等の朝廷軍に敗れて、九州へ敗走する。九州では足利軍に対して、菊池軍が奮戦されるが、敗退を余儀なくされた。

 やがて足利尊氏は、弟直義と共に、大軍を率いて上洛して来る。これを阻止しようとする新田・楠木両軍は、兵庫・湊川でこれを迎え撃つが、多勢に無勢で力つき、義貞公は敗走、正成公は「七生滅賊」を誓い、討死された。後醍醐天皇は再び比叡山に逃れられた。足利尊氏は、延元元年(建武3年・1336)入京、持明院党の光明天皇を奉じ、これをもって事実上の幕府再興となり、同時に建武中興の御代は、2年半ばで終わることとなった。楠木正成公の戦死によって事実上の崩壊となった、と言えよう。

 後醍醐天皇は、この年の2月に元号を「延元」と改められたのであるが、のち12月には吉野へ遷られて再起を期されることとなった。「吉野ハ延元元年、京都ハ建武三年也。一天両帝南北京也」と言われたように、天下に二人の天皇が、二つの年号を用いて、南北朝分立の時代を迎えたのである。

 かかる窮地に立とうとも後醍醐天皇は、理想実現にはいささかも揺ぐことのない堅い御決意をもって、京都回復への策を進められた。新田義貞公は、越前・金崎城に拠って足利軍と戦われる。天皇は陸奥の北畠顕家公に上京を命じられる。また東海道・遠江には尊澄法親王が下向される。尊澄法親王は、延元2年還俗せられて、名を”宗良“と改められた。九州では菊池氏が奮起され、もって九州義軍の活動もさかんとなった。

 天皇の命にこたえ陸奥の北畠顕家公が京へ向って霊山を出発されたのは、延元2年(建武4年・1337)、この報をきっかけに、各地義軍の京都進撃が促された。霊山を発した北畠顕家公は、南下されて鎌倉から遠江へ。ここで宗良親王の軍と合流、足利軍と戦われながら摂津に至り、一挙に京を衝く態勢となった。しかしその矢先、大将顕家公が戦死されて敗退。新田義貞公の義軍も京都回復が絶望となり、義貞公は、越前の藤島で討死されたのである。

 京都回復の計画は、京都を目前にして、失敗に帰した。しかし後醍醐天皇は、これにもくじけられなかった。義良親王を奥州に下され、結城宗広公が護衛となられ、北畠親房公も同伴された。また宗良親王を遠江に向わせられ、その皇子がこれに従われるなど、天皇は、京都中心の勢力を奥州へ移されるとともに、九州へは征西将軍として懐良親王を派遣された。だが、計画は困難を極め、成功するに至らなかった。

 後醍醐天皇が吉野に遷らせられて2年有余、ひたすら京都を回復して国家中興を図ろうとされた雄図は、あいつぐ武将の戦死、計画の挫折によって、実現の途は遠くなり、後醍醐天皇は、悲痛のうちに延元4年8月16日、御歳52歳で崩御せられたのである。

 「玉骨はたとえ南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕を望まんと思う」と、最後まで国家中興を願われた。天皇親政による神国理想の国づくりのため、不撓不屈の御精神をもって闘われ、尊い御生涯を閉じられたのである。

 後醍醐天皇の大いなる御志は、後村上、長慶、後亀山の三代の天皇とその皇子達に継承され、更に幾多の忠臣、義士の純忠至誠をもって、以後の幕府政治に対して、大義をかけた永い闘いが続けられてゆくのである。一門一家をあげて忠義を貫いて已まず、楠氏にあっては一族全滅して痕跡を残さぬまでに至った。ここに楠公精神があり、これに象徴される多くの忠臣義士の尊い精神が、時代を超えて全国に伝わり、幾多の志士を奮起せしめることとなるのである。

 「太平記」「神皇正統記」をはじめとして、「日本外史」などの普及と共に、山崎闇斎等儒学者によっても、建武中興実現のために身を挺した忠臣義士の精神が広められ、また南朝を正統と定めた「大日本史」の編纂と、その他水戸光圀公の楠公景仰に伴う事蹟は、後世へ多大の影響を与えた。更に幕末志士は、水戸学の影響を受け、西郷隆盛、橋本景岳、吉田松陰、会沢正志斎などの感化も大きく、また真木和泉守は、のち明治天皇の治世に大きな影響を及ぼしたと言われる。

 こうして江戸幕末の一大国難に直面して、幕末の志士は、わが国の真姿回復に向け、明治維新を断行した。王政復古が成り天皇親政が実現したのは、建武中興から数えて、実に530年もの永きを経てからのことであった。

 わが国の本義は、「神国」にあり、建武中興において、わずかにでも曙光を歴史に留められた意義は大きい。日本民族の奥深く流れる思潮等は、やがて重大国難に著しくその姿を現わし、もって明治維新を招いた。そして明治の御代、明治天皇の鴻業によって、近代日本の理想国家への道が開かれたのである。